学生帽はいったい何処へいった
学生帽、しばらく見ていない。
現在学生帽姿を見れるのは日曜午後6時半からの磯野カツオくらいだろう。
おれは中学3年まで被っていたよ。
中学のころの記憶はあまりないが、休日の外出時も被っていた。
寒い時期は、それプラス黒のステンカラーコート(当時は入学時に強制的に買わされた)。
ダサダサだな。
その格好で野口五郎と桜田淳子の2本立て映画をひとりで観に行った。
街中まである映画館に歩いて行ったよ。
これは覚えている。
中1の春休みだったと思う。
そういえばそのころアディダスのウインドブレーカーが流行ったな。
袖に3本線が入っていて、フードを丸めて襟にたためるやつだ。
おれも着ていたよ。
だけどリーガルの運動靴は買ってもらえなかったな。
前も書いたけど、中学の時(正確には中2の後半から)は良い思い出がない。
だけど中3の後半かな、クラスで気の会う数人と行動をともにする事ができ、少しは楽しかった。
その連中とは、ここには書けないような悪いこともしたけれどね・・。
ありがたみ
2000年12月から2003年12月までおれは単身赴任で東京に勤務していた。
とは言っても住まい(寮)は千葉県船橋市。
通勤はJR総武線快速で津田沼〜東京、山手線で東京〜有楽町、それからは徒歩15分。
通勤は1時間半くらいかかったが、それでもまだ短いほうだそうだ。
今日、USAのリハのあと残業で普通の業務して疲れて地下鉄乗っていて思い出したのだ。
あの頃から比べると・・。
全てが許されるね。
単身時代はパソコンも無し、文字しか見えない携帯のみ。
車も無い。
二重かまどなのでお金も無い。
最悪の3年。
唯一の楽しみがバンドだったな。
あの頃の事を思えば大抵の事は我慢できるよ。
バンドの無い休日は自転車で遠くまで出かけた。
だけど普通の自転車、限界がある。
千葉県佐倉市が一番の遠乗りだった。
千葉マリンスタジアムへも。
あまり興味の無いロッテ戦を観たな。
それから、自転車ではないけれど御茶ノ水はよく行った。
たくさんの楽器屋めぐり、楽しかったな。
神保町の古本屋街も。
ちょっと辛かったけれど、単身赴任、良い経験だった。
家族のありがたみというのが分かるよ。
心の貧しい男だわ…私
おれは心が貧しいと思っている。
これは家系だ。
だからしょうがない。
そういえば、心の貧しい・・っていう歌詞の曲があったな。
確か山口百恵・・。
曲名が思い出せなかったので、Googleで検索したところ、すぐ見つかった。
山口百恵「愛の嵐」
ついでに動画も観た。
「ストーム、ストーム・・」を繰り返すところ当時カッコ悪いな・・って思っていたけど、やはりそう感じたよ。
この曲、阿木&宇崎コンビの作品なのだが、夫婦で曲を作るってどんなだろう。
おれならたとえ夫婦でも、いや夫婦だからこそ作品の作成中に口を出されるのは嫌だな。
きっと完全に別作業で進行するのだと思う。
日常生活時、もちろん食事の時も仕事の話しは一切無し。
そう思いたい。
心を貧しくする魔法の言葉。
「ざまあみろ! 」
「いい気味だ!」
「おれだけ貧乏クジひいてたまるか!」等
実際口に出して言うのは難しいだろう。
職場で誰かがミスった時にこんな言葉を発したものなら、たちまち仲間はずれになってしまうだろう。
だから心の中で叫ぶ。
貧しい心の中で貧しくなる魔法の言葉を叫ぶのだ。
そして心の中で叫ぶと同時に口からは思ってもいない反対の言葉「ドンマイ、ドンマイ!気にするなよ!」なんて言ってみる。
腹黒になれること請け合いだ。
USAを踊った
今日は職場のキックオフというイベントだった。
当初参加予定だった本社(東京)のやつらは「昨日の地震で大変な時に迷惑をかけてはいけないから・・。」という理由で来なかった。
めずらしく気が効くじゃねえか!
本番直前「思いきってやろうぜ!」って手を合わせ気合い入れ踊ってきたよ。
おれはBメロは旗降って踊っていた。
フロントの若いやつらは30代、Bメロをかなり頑張って踊っていたな。
リハの時から若いやつらの熱意が伝わってきたね。
おれは彼らの指示にハイハイって言って従ったよ。
こういう時(おれは忙しくて家でダンスの練習もできなかった・・。)いくらおれが先輩でも後輩の指示に従ったほうが良い。
そうしなければ失礼だ。
USA、良い思い出になった。
今日は缶チューハイ5本飲んでごきけんになったが、若いお姉ちゃん達に「ユー、可愛いね!」のセクハラ発言も抑えた。
こうやって年をとっていく・・。
だけど年上の元お嬢さん達には「お姫さま抱っこをさせて!」って言ったら凄く受けていた。
数年前、モモちゃんをお姫さま抱っこしてからしていないので、今度ライブの時に誰かをお姫さま抱っこするつもり。
女子のみなさまは要注意だ。
アイ・ラブ・サル
小学3年のころ近くに住んでいた違うクラスの同学年の女子を悪ガキ仲間と「サル、サル!」って言ってからかっていた。
そのうちその子の親から苦情がきたよ。
しかし、あろう事にその子と4年生からおれだけ同じクラスになってしまった。
その子、楽器は上手いし成績も良い。
いつの間にかおれは「カオルちゃん良いな・・。」って気持ちになっていたな。
例の音楽キチガイの担任は変わっていて、勉強の出来ない生徒の家に出来る生徒が教えに行く。
クラス内家庭教師と言うのだろうか。
そんなことをやっていた。
ある日カオルちゃんがおれの家に教えにきたよ。
緊張したのかほとんど記憶が無いね。
ただ顔が真っ赤に熱くなったことだけは覚えている。
サルって呼んで悪かった・・。
凄く反省している。
だけど小学生低学年のころって、男子はそんなものなのだろう。
男子は子供だね。
そして今がある。
おれは琴似工業高校を卒業し1年間ブラブラしたあと札幌大学経営学部に入学した。
在学期間は1年半ほどだったが、札大でカミサンとマルタツ師匠と出会えたのだから入学して良かったと思っている。
札大講堂で行われた入学のオリエンテーションで近所に住んでいる伊藤くんと3年ぶりに再会。
この再会がなかったらカミサンと出会えていたかどうか・・。
可能性はかなり低かったろう。
彼は小学4〜6年まで同じクラス。
出席番号はおれのすぐあと。
中学はクラス同じになったことは無かったが、3年間一緒だった。
「おー!五十嵐じゃあないか!」
彼から声をかけてきた。
少し話したあと「おれ、文芸部に入りたいんだ。部室に行ってみたいのだが、五十嵐悪いけど一緒に付き合ってくれないか。」
おれは付き添いで行くのなら良いよと彼と一緒に部室を訪れた。
どういう訳か文学には全く興味無いのに、おれも彼と一緒に入部してしまったよ。
少しあとにカミサンも入部した。
彼と再会していなかったら・・、おれが一緒に文芸部の部室に行かなかったら・・。
彼は大学卒業後警察官になったが、悲しいことに42歳の若さで亡くなってしまった。
亡くなったのは、おれがちょうど単身赴任をしていた時だ。
もともとおれは精神不安定なところがある上に単身のストレス、そして彼の死。
とうとう病院と薬にお世話になったよ。
毎年雪が降り始める寒い時期、カミサンと彼のお墓に行きお花を手向けている。
伊藤!またそのうち会おう!
南へ東へ
南8条西26丁目。
今日つぶの散歩で歩いた所だ。
今は老人介護施設が建っているここには昔、札医大の分院が建っていた。
そこをさらに南に向かうと啓明中学校、緑ヶ丘小学校がある。
おれの出身校だ。
昔、小学校の回りには川が流れていた。
放課後、牛乳のフタを川に流してどこまで流れるか競いあったものだ。
医大分院から東に向かう今の旭ヶ丘西友の近辺は畑だった。
畑にガソリンスタンドが建って、そのあと西友が建った。
西友はおれが中3の時に建ったので、もうかれこれ築43年。古いね。
その西友が建つ前、まだ畑だったころの話し。
畑近辺の交差点で車同士の事故があり、事故車の1台が1週間ほどその事故現場車に放置されていた。
今では考えられない事だ。
車は、マツダのファミリアバン。
丸目大小4灯のやつだ。
そして通学時にその事故車の前を通った時の記憶。
その事故車からなぜか酸っぱいにおいがしたんだよ。
強烈に覚えているよ。
寿司屋の出前の車だったのだろうか?
今はもうだれも
琴似工業高校、今はどうか分からないが、おれのいたころは真面目でない生徒が多かった。
琴似バスターミナルで同じバスに乗ろうとしていた一般人ともめる。
バスの一番後ろの席に座ったやつらはたばこ吸いだす。
学校のトイレでまたたばこ。
当時はくみ取り式だったから、吸い殻をそのままトイレに捨てると中に溜まったガスに引火して爆発するぞ!
本当か嘘か分からない都市伝説。
地下鉄駅トイレでも喫煙していたな。
琴工生(キンコウセイと読む。)は若いころから専売公社に貢献していた。
当時はツッパリ全盛で生徒の半分はリーゼントにパーマ。
おれは数少ない長髪組。
ツッパリ組はみんなカバンがペッチャンコだったな。
教科書どうしているんだ?とたずねると、教室内にあった木製クローゼットの底をはがして隠しているんだと教えてくれた。
教室内でも喫煙していた。
冬は喫煙後、ストーブの蒸発皿にバニラエッセンスを垂らして臭い消しにしていた。
悪いことには知恵がまわる琴工生。
おれは履かなかったが、ツッパリ組が冬に履いていた特長の長靴、カッコよかったな。
今の高校生、だれもそんなことはしないのだろうな。
なにか嫌なことでも・・
小学生高学年のころ家族と街に出かけたときの事だ。
買い物を終え三越のエスカレーターを降りてくる。
エスカレーターが3階から2階にさしかかった時に、1階のフロアーから大音量で音楽(洋楽)が聴こえてきた。
当時のデパートにはジュークボックスが設置されていることが多かった。
その曲、一度終わったのだけれど、すぐまたリピートで聴こえてきたよ。
数年後に分かったのだが、その曲はポールのJET。
1階でエスカレーターを降り、フロアーを歩いていたところまたまたJET。
女子社員がジュークボックスの前にいたのが見えたから、先程からリピートでかけていたのは彼女だったのだろう。
よほどのポールフアン?
それとも職場でなにか嫌なことでもあったのだろうか・・。
今調べたところJETのリリースは74年2月だから、おれが小学校卒業間近の時期の出来事。
おれも出来ることなら職場で大音量で好きな曲を流したいものだ。
エセライダー
ホンダのCB50、おれが最初に乗ったバイクだ。
札大に入ってからの事だ。
そのあとスズキGN50、就職して給料をもらうようになってからいきなりカワサキGPZ400Fへ乗り代えた。
だけどバイクは結婚する前にやめてしまった。
彼女(今のカミサン)とドライブするなら2輪より4輪の方が楽しいだろうと思ったからだ。
だからおれは真のライダーではない。
50CCのバイク、何キロ出ただろう・・、どんなにがんばっても80キロくらいだっただろうか。
スピードは出なかったが50で稚内までツーリングにも行った。
親父は真剣にやめさせようとしたな。
普通のライダーなら嫌がるであろう雨の中の走行がおれは好きだった。
やはり変わり者だね。
グローブはすぐにべちゃべちゃ、安い薄っぺらいカッパの袖や襟からはどんどん雨水が入ってくる。
ヘルメットのシールドは雲って視界は最悪。
信号待ちに雨でぬれたエンジンからはもんもんと蒸気が立ちこめる。
最近、また乗りたいなと思うことがある度に口にだすのだが、その度にカミサンに反対される。
確かに鈍いオヤジには、クラッチや変速ギヤの操作もおぼつかないであろう。
やめておいたほうが良さそうだ。