USAを踊った

今日は職場のキックオフというイベントだった。
当初参加予定だった本社(東京)のやつらは「昨日の地震で大変な時に迷惑をかけてはいけないから・・。」という理由で来なかった。
めずらしく気が効くじゃねえか!

本番直前「思いきってやろうぜ!」って手を合わせ気合い入れ踊ってきたよ。
おれはBメロは旗降って踊っていた。
フロントの若いやつらは30代、Bメロをかなり頑張って踊っていたな。
リハの時から若いやつらの熱意が伝わってきたね。
おれは彼らの指示にハイハイって言って従ったよ。
こういう時(おれは忙しくて家でダンスの練習もできなかった・・。)いくらおれが先輩でも後輩の指示に従ったほうが良い。
そうしなければ失礼だ。
USA、良い思い出になった。

今日は缶チューハイ5本飲んでごきけんになったが、若いお姉ちゃん達に「ユー、可愛いね!」のセクハラ発言も抑えた。
こうやって年をとっていく・・。

だけど年上の元お嬢さん達には「お姫さま抱っこをさせて!」って言ったら凄く受けていた。
数年前、モモちゃんをお姫さま抱っこしてからしていないので、今度ライブの時に誰かをお姫さま抱っこするつもり。
女子のみなさまは要注意だ。

アイ・ラブ・サル

小学3年のころ近くに住んでいた違うクラスの同学年の女子を悪ガキ仲間と「サル、サル!」って言ってからかっていた。
そのうちその子の親から苦情がきたよ。
しかし、あろう事にその子と4年生からおれだけ同じクラスになってしまった。
その子、楽器は上手いし成績も良い。
いつの間にかおれは「カオルちゃん良いな・・。」って気持ちになっていたな。

例の音楽キチガイの担任は変わっていて、勉強の出来ない生徒の家に出来る生徒が教えに行く。
クラス内家庭教師と言うのだろうか。
そんなことをやっていた。
ある日カオルちゃんがおれの家に教えにきたよ。
緊張したのかほとんど記憶が無いね。
ただ顔が真っ赤に熱くなったことだけは覚えている。

サルって呼んで悪かった・・。
凄く反省している。
だけど小学生低学年のころって、男子はそんなものなのだろう。
男子は子供だね。

そして今がある。

おれは琴似工業高校を卒業し1年間ブラブラしたあと札幌大学経営学部に入学した。
在学期間は1年半ほどだったが、札大でカミサンとマルタツ師匠と出会えたのだから入学して良かったと思っている。

札大講堂で行われた入学のオリエンテーションで近所に住んでいる伊藤くんと3年ぶりに再会。
この再会がなかったらカミサンと出会えていたかどうか・・。
可能性はかなり低かったろう。

彼は小学4〜6年まで同じクラス。
出席番号はおれのすぐあと。
中学はクラス同じになったことは無かったが、3年間一緒だった。
「おー!五十嵐じゃあないか!」
彼から声をかけてきた。
少し話したあと「おれ、文芸部に入りたいんだ。部室に行ってみたいのだが、五十嵐悪いけど一緒に付き合ってくれないか。」
おれは付き添いで行くのなら良いよと彼と一緒に部室を訪れた。

どういう訳か文学には全く興味無いのに、おれも彼と一緒に入部してしまったよ。
少しあとにカミサンも入部した。

彼と再会していなかったら・・、おれが一緒に文芸部の部室に行かなかったら・・。

彼は大学卒業後警察官になったが、悲しいことに42歳の若さで亡くなってしまった。
亡くなったのは、おれがちょうど単身赴任をしていた時だ。
もともとおれは精神不安定なところがある上に単身のストレス、そして彼の死。
とうとう病院と薬にお世話になったよ。
毎年雪が降り始める寒い時期、カミサンと彼のお墓に行きお花を手向けている。
伊藤!またそのうち会おう!

南へ東へ

南8条西26丁目。
今日つぶの散歩で歩いた所だ。
今は老人介護施設が建っているここには昔、札医大の分院が建っていた。

そこをさらに南に向かうと啓明中学校、緑ヶ丘小学校がある。
おれの出身校だ。
昔、小学校の回りには川が流れていた。
放課後、牛乳のフタを川に流してどこまで流れるか競いあったものだ。

医大分院から東に向かう今の旭ヶ丘西友の近辺は畑だった。
畑にガソリンスタンドが建って、そのあと西友が建った。
西友はおれが中3の時に建ったので、もうかれこれ築43年。古いね。

その西友が建つ前、まだ畑だったころの話し。
畑近辺の交差点で車同士の事故があり、事故車の1台が1週間ほどその事故現場車に放置されていた。
今では考えられない事だ。
車は、マツダのファミリアバン。
丸目大小4灯のやつだ。

そして通学時にその事故車の前を通った時の記憶。
その事故車からなぜか酸っぱいにおいがしたんだよ。
強烈に覚えているよ。
寿司屋の出前の車だったのだろうか?

今はもうだれも

琴似工業高校、今はどうか分からないが、おれのいたころは真面目でない生徒が多かった。

琴似バスターミナルで同じバスに乗ろうとしていた一般人ともめる。
バスの一番後ろの席に座ったやつらはたばこ吸いだす。
学校のトイレでまたたばこ。
当時はくみ取り式だったから、吸い殻をそのままトイレに捨てると中に溜まったガスに引火して爆発するぞ!
本当か嘘か分からない都市伝説。
地下鉄駅トイレでも喫煙していたな。
琴工生(キンコウセイと読む。)は若いころから専売公社に貢献していた。

当時はツッパリ全盛で生徒の半分はリーゼントにパーマ。
おれは数少ない長髪組。
ツッパリ組はみんなカバンがペッチャンコだったな。
教科書どうしているんだ?とたずねると、教室内にあった木製クローゼットの底をはがして隠しているんだと教えてくれた。

教室内でも喫煙していた。
冬は喫煙後、ストーブの蒸発皿にバニラエッセンスを垂らして臭い消しにしていた。
悪いことには知恵がまわる琴工生。
おれは履かなかったが、ツッパリ組が冬に履いていた特長の長靴、カッコよかったな。

今の高校生、だれもそんなことはしないのだろうな。

なにか嫌なことでも・・

小学生高学年のころ家族と街に出かけたときの事だ。
買い物を終え三越のエスカレーターを降りてくる。
エスカレーターが3階から2階にさしかかった時に、1階のフロアーから大音量で音楽(洋楽)が聴こえてきた。
当時のデパートにはジュークボックスが設置されていることが多かった。
その曲、一度終わったのだけれど、すぐまたリピートで聴こえてきたよ。

数年後に分かったのだが、その曲はポールのJET。
1階でエスカレーターを降り、フロアーを歩いていたところまたまたJET。
女子社員がジュークボックスの前にいたのが見えたから、先程からリピートでかけていたのは彼女だったのだろう。

よほどのポールフアン?
それとも職場でなにか嫌なことでもあったのだろうか・・。
今調べたところJETのリリースは74年2月だから、おれが小学校卒業間近の時期の出来事。
おれも出来ることなら職場で大音量で好きな曲を流したいものだ。

エセライダー

ホンダのCB50、おれが最初に乗ったバイクだ。
札大に入ってからの事だ。
そのあとスズキGN50、就職して給料をもらうようになってからいきなりカワサキGPZ400Fへ乗り代えた。

だけどバイクは結婚する前にやめてしまった。
彼女(今のカミサン)とドライブするなら2輪より4輪の方が楽しいだろうと思ったからだ。
だからおれは真のライダーではない。

50CCのバイク、何キロ出ただろう・・、どんなにがんばっても80キロくらいだっただろうか。
スピードは出なかったが50で稚内までツーリングにも行った。
親父は真剣にやめさせようとしたな。

普通のライダーなら嫌がるであろう雨の中の走行がおれは好きだった。
やはり変わり者だね。
グローブはすぐにべちゃべちゃ、安い薄っぺらいカッパの袖や襟からはどんどん雨水が入ってくる。
ヘルメットのシールドは雲って視界は最悪。
信号待ちに雨でぬれたエンジンからはもんもんと蒸気が立ちこめる。

最近、また乗りたいなと思うことがある度に口にだすのだが、その度にカミサンに反対される。
確かに鈍いオヤジには、クラッチや変速ギヤの操作もおぼつかないであろう。
やめておいたほうが良さそうだ。

学校祭

琴工の学校祭、派手さが無くてショボかったな。
なんてったって校舎がボロボロだったからね。

3年生、最後の学祭の時の事だ。
クラスにハードロック好きのやつが3人いた。
ギター2人とベース。
3人とも澄川に住んでいた。
当時澄川にTさんってハードロック系のドラマーが居て、かなり有名だったそうだよ。
澄川住人はハードロック好き?
なにか地域的に特性、要因があるのかね・・。

学祭の出し物は、その3人がバンドを組んでライブハウスをやろうということになった。
ギター2人、タカダくんとイワサワくん。
ベースはサイトウくん。
3人とも凄く上手かったよ。
ところがドラムが居ない・・。

ちょうどタイミング良く「1年に凄いドラマーが居る!」っていう情報が入り、異例の参加となった。
その1年生ドラマー、のちの超有名ハードロックバンドのドラマーだ。

セットリストはパープル、レインボー、バウワウの曲が多かった。
思い出した。フーバージョンのサマータイムブルースをやったな。
おれは、あいつらのおかげでフーを知ったようなものだ。

そのドラマーくん、キルザキングをやろう!って何回も3人に懇願したのだが、結局1回もリハやらなかったな。
あれだけ上手いやつらだったのに、キルザキングは難しかった?
いや今考えれば、歌が難しかったのかもって気がする。
その学祭バンド、残念な事にボーカル専門は居なかったのだ。
ギターの2人が弾きながら歌っていたのだけれど、キルザキング、キー高そうだものね。

人形とロボット

おれはゲームをしない。
いわゆる現代のゲームに近いゲームでは、ムスメが小学生のころ付き合いでファミリーコンピュータという機種で少し遊んだくらいだ。

ゲームセンターにもほとんど行かなかった。
そういえば昔、テレビ搭の上にゲームコーナーがあった。
覚えているのはゲームではなく、おみくじだ。
お金を入れると神社のやぐらのようなところまで人形(これがボロボロの人形で不気味だった。)が歩いて行き、開いたやぐらからおみくじを両手に乗せて持ってくるのだ。

家の近くでは、まるやま市場の2階にゲームコーナーがあった。
そこでは車のプラモみたいのがベルトコンベアに描かれた道路を走る。
バンドル(本物のバンドルだったと思う。)を操作して道路上の出っ張りをうまく通過するよう走らせるのだった。
出っ張り(接点)をうまく通過すると「チーン!チーン!」と鐘が鳴り点数が加算される。
シンプル過ぎるゲームだった。

パチンコもほとんどやらなかったよ。
「若いころ遊んでおかないと年取ってから狂うぞ!」って言われたけど、そちらの方面は今現在大丈夫なようだ。

ゲームにつぎ込むお金。
今でももったいないと思う。
おれは単にケチなだけだ。とも思う。

野球人形の飛雄馬や野球ロボットのオズマ。
彼らもゲームに興じる事は決してなかったであろうと思う。

ゆるやか

ウッちゃんがキャロル時代使用のストラトは三越で購入したそうだ。
なにかの本で読んだことがある。

札幌の三越でも昔、エレキギターを販売していた。
ギターを弾いたこともなかった小学生のころ、デザイン的にカッコいいな!と思ったのはシャープ5モデルとSGコピーモデル。
もちろん当時はモデル名など知るよしもなく、ギターを弾くようになって少ししてから「ああ、あの時のギターだ!」とカタログを見て知った次第だ。

三越には楽器のほかにレコードも販売していた。
地方の修学旅行生がレコード売場でレコードジャケットを見てキャーキャー騒いでいたのを偶然見かけたことがある。
レコードジャケットなのに、なにが嬉しいのだ・・。
おれは冷ややかな子供だった。

丸井でもレコードを販売していた。
浅田美代子のレコードジャケットが見たかったのだが、恥ずかしくて見れなかった記憶がある。
修学旅行生の事は言えないな・・。

誰も覚えていないようだが、丸井の地下通路には細長いショウウィンドウがあり、その中をベルトコンベアに固定された人形が永遠に往復していた。
ぜひ復活して欲しい。

パルコには山野楽器があり、ウィンドウにスターキャスターが飾られていた。
なぜスターキャスターだったのだろう・・。

長崎屋(今のジュンク堂)の地下には、やきそば屋、ピヴォ(昔のダイエー)にはオーディオ専門売場があった。

丸井近く不二家のウィンドウではいつもチキンが回っており、いつもいい匂いが漂っていた。

現在よりは確実に不便な時代だったと思うけれど、時間の流れがゆるやかで、おれにはちょうど良かったのでは・・。